@〜Nをクリックしてみましょう。




沼田城跡@
 沼田城は天文元年(1532年)沼田顕泰が約3年の歳月を費やして築城した。
 関東北辺の小さな山城ではあったが、三方を急流と断崖に囲まれた自然の要害であり、また関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝として、戦略的な価値は大きく、しかも沼田氏の内紛により城主朝憲が謀殺されたため、北から上杉、南から北条、西から真田の各勢力が進出し激しい争奪戦を展開した。
 天正18年(1590年)真田家初代城主となった信之は城郭の拡張を行い二の丸、三の丸、を築き、水手曲輪に大門を建てた。
 さらに慶長12年(1607年)五層の天守閣を造営し、その威容は天下の名城「霞城」と称された。
 しかし、天和元年11月5代城主信直が改易となり、翌年正月幕府により容易を誇った名城は破壊された。
 元禄16年(1703年)本多正永が幕府の交付金で城を再建し、その後黒田氏、土岐氏の居城となり明治になって取りこわされた。
 現在三の丸跡には学校・民家が建ち、本丸・二の丸跡は公園に変貌した。
城鐘A
 寛永11年(1634年)2代城主信吉が鋳造し城内三の丸の楼に吊りさげて真田家隆盛と領内安泰を祈願して撞き鳴らした。
 その後城の破却により浮沈の運命をたどったが、昭和29年県指定重要文化財となり、現在沼田公園に復元された鐘楼に吊りさげられ朝夕6時に撞き鳴らされている。

平八石B
 昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後、載せた石。

正覚寺
  大蓮院殿の墓C

 大蓮院(小松殿)は徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の娘に生まれたが徳川家康の養女となり、天正17年9月(1589年)17歳で信之に嫁いだ。
 政略結婚であったが信之と真田家に献身的に仕え、家康の偉大さを信之に認識させた。
 また、会津攻めの陣中で石田三成に請われ西軍に組した昌幸、幸村父子が佐野犬伏から兵を返して沼田城へ入ろうとしたが、薙刀小脇に「たとえ父君でも今は敵味方、お引き取り下さらぬと鉄砲弓矢をうちかけますぞ」と入城を拒んだという勇ましい逸話も残されている。
 そして関ヶ原の役の後は、昌幸・幸村父子の助命に尽力した。
 元和2年信之が上田へ移封されたため共に沼田を去ったが、4年後江戸で病にかかり草津へ療養に向かう途中鴻巣で死去した。
正覚寺
  鈴木主水の墓D

 名胡桃城代鈴木主水は天正17年11月(1589年)北条氏沼田城代猪俣能登守に城を奪われた責任を負い重臣と共に正覚寺で自刃して果てた。
 豊臣秀吉はこの北条氏の不法行為を口実に北条征伐を行い小田原城を攻め落とした。
 また嫡子右近は京都真田屋敷の留守居役を務め信之のために尽力した。

妙光寺
  慶寿院殿の墓E

 慶寿院(小野お通)は2代城主信吉の側室で、5代城主信直の母である。
 寛文7年(1667年)本隆寺を改築して慶寿山妙光寺と改称し自ら中興開基となったが2年後死去した。

舒林寺
  真田又八郎信守の墓F

 4代城主信政の次男。正保2年6月23日夜(1645年)城内で弟大学を斬殺し自刃した。

天桂寺
  真田河内守信吉の墓G

 信吉は信之、大蓮院(小松殿)の長男として生まれ、元和2年(1616年)2代城主となり、父信之の偉業を引き継ぎ領内の拡充につとめた。
 また、父の代理として弟信政と共に大阪冬の陣、夏の陣へも参陣している。
 寛永11年11月(1634年)江戸で急死し、迦葉山で火葬された。

歓楽院
  千手観音H

 5代城主信直が観音堂を建て安置したことから「真田観音」と呼ばれた。

海野塚
  海野能登守輝幸・幸貞の墓I

 天正8年(1580年)沼田城へ入った昌幸は真田一族の海野能登守輝幸を城代に据えたが、これをねたむ者が「海野は北条氏と通じている」とざん言した。
 こともあろうにこれを信じた昌幸は弟信尹を討伐にさし向けた。輝幸は「逆心のない証をたてん」と城を脱出し迦葉山へ向かう途中真田勢に追撃されたが、寄手の豪傑を一太刀で切り伏せ「無益の殺生はこれまで」とその死屍に腰をかけ謡曲羅生門の一節を謡いながら嫡子幸貞と刺しちがえて果てた。

真田伊賀守信直の墓J
 伊賀守信直は明暦3年9月(1657年)5代城主となり、翌年城郭の大修理を行った。
 しかし、寛文2年(1662年)拡大検地を行い年貢賦課石高を3万石から14万石に引上げたうえ、井戸・窓・婚礼・出産等にまで税を課した。
 さらにこの重税により行った多く社寺の造営や土木工事の労役も課し領民を苦しめた。
 天和元年11月(1681年)多年の悪政と江戸両国橋架替用材調達の不手際を理由に改易され沼田真田分家を滅導いてしまった。

沼田大明神
  沼田平八郎景義の墓K

 沼田平八郎景義は沼田顕泰の側室・ゆのみの子で、武士の守本尊摩利支天の再来とまでいわれた勇将。
 天正9年3月(1581年)父顕泰が築いた沼田城奪還のため来攻したが、昌幸の策に乗った伯父金子美濃守(ゆのみの兄)に城中水手曲輪で謀殺されてしまった。
 昌幸は沼田氏旧臣の反抗を恐れて亡骸を小沢城跡の一隅に葬り沼田大明神として祀った。

城孝院
  真田大学の墓L

 4代城主信政の3男、兄又八郎信守に殺された。

榛名神社M
 流造り朱塗の本殿は初代城主信之が寄進したものである。

加沢平次左衛門の墓N
 加沢平次左衛門は5代城主信直の家臣。信直が改易になった時、幕府から沼田城の諸事について質問をうけ、詳細に供述したという。
 また生前に記述した加沢記、及び沼田領品々覚書は当時を知る貴重な資料である。
※本文の一部には異説もあります。