上州真田の里沼田
真田の里ガイドマップ

真田絵巻

沼田真田分家興亡年表

沼田に見る真田一族の興亡
北条氏との沼田城争奪時代
 天正8年6月(1580年)真田昌幸は武田勝頼の先兵として、北条勢を駆逐し沼田城へ入る。
 翌9年3月沼田平八郎景義は父顕泰が築いた沼田城奪還のため来攻したが昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺されてしまう。
 天正10年3月織田信長と徳川家康の連合軍に攻められた勝頼が天目山で自刃したため、昌幸は織田方の武将・滝川儀太夫に沼田城を明け渡したが、同年6月信長が本能寺で明智光秀に討たれたので、再び昌幸は沼田城へ入り叔父矢沢頼綱を城代に据えた。
 しかし、宿敵の関東制圧のため北条氏は、北辺の重鎮、天下屈指の要害である沼田城奪還に大軍をもって来攻した。
 この血みどろの攻防戦は7年間続いたが、城代頼綱の奮戦により北条氏は沼田城を攻略することができなかった。
 そこで北条氏は天下統一を目前に控えた豊臣秀吉に仲介を請いこの裁定により沼田城は北条氏の領するところとなり、天正17年7月(1589)またもや昌幸は沼田城を明け渡したのである。
 しかし、同年10月北条氏の城代猪俣能登守が利根川の対岸の真田領・名胡桃城を不法に攻略したので、秀吉はこれを口実に北条征伐を行い小田原城を攻め落とした。
 天正18年(1590年)昌幸はこの戦いの大功により秀吉から改めて沼田城を与えられた。
沼田真田分家時代
 名実共に沼田領2万7千石の支配者となった昌幸は、長男信之を初代城主に据えた。
 信之は長い戦乱に疲弊の極みにあった領内の復興につとめ、年貢の減免、水利の開さく、田畑の開拓、町割の改修等を行い今日における城下町沼田の基礎を築いた。
 そして、乱世において真田家の運命を託せる人物として徳川家康を選び、父昌幸・弟幸村と敵味方に別れてまで忠勤を尽くし真田家の命脈を保った。
 元和2年(1616年)幕府に上田へ移封を命ぜられ、さらに6年後には松代へ移封された。
 2代城主信吉も父信之の偉業をよく引き継ぎ領内の拡充につとめたが寛永11年11月(1643年)江戸で急死してしまった。
 翌年松代から信之が来てわずか4歳の熊之助を3代城主に据えたが、3年後に江戸で死去してしまっだ。
 寛永16年再び信之が来て信政を4代城主にしたが、信吉たくわえた10万両の軍用金を松代へ持ち去ってしまった。
 信政は用水工事を行い、田畑を開拓し領内をさらに開発した。
 明暦2年(1656年)信之が91歳で隠居したため、信政は松代城主を継ぐことになり、翌年7月有力な家臣団を引き連れた上8万両の大金を持って沼田を去っていった。
 5代城主を継いだ信直は拡大検地を行い俵高3万石を14万石に拡大し過酷な年貢を課し領民を苦しめた。
 延宝8年(1680年)信直の強力な後援者であった大老酒井忠清が5代将軍推挙の件で失脚すると、幕府は多年の悪政と江戸両国橋架替用材調達不足を理由に領地を没収し信直を山形へ追放した。
 時に天和元年11月(1681年)91年間続いた沼田真田分家は滅亡した。