真田絵巻
                 作者:伊藤 亀悦氏
                  (沼田市中央公民館所蔵)
 沼田氏12代沼田万鬼斎顕泰は、天文元年(1532)蔵内城(沼田城)を築城したが、ある夜流れ星3個が城内に突入する夢を見る。
 夢占いによれば、天より星落下するを見るは大凶という。
 偶然か一族骨肉相噛み、沼田氏滅亡を暗示したもの。
 嫡子・弥七郎朝憲に13代城主の座をゆずる。
 (永禄9年か10年)
 側室・ゆのみとの間にできた平八郎を連れて川場の屋形(天神城)に隠居した万鬼斎は、平八郎に武道を仕込む。
 ゆのみとその兄・金子美濃守にそそのかされた万鬼斎は、永禄12年正月6日、弥七郎朝憲を川場の屋形に招き、謀殺する。
 麻利支天の再来と言われた沼田平八郎景義。
 戸神山に陣を敷いた沼田平八郎景義に偽りの血判書を示し、空涙を流し、沼田城に誘う金子美濃守。
 天正9年11月21日、沼田城代 海野能登守輝幸(72歳)とその子 中務大輔海野幸貞(38歳)は見におぼえのない謀叛の罪を着せられ、戸神が原の一角、女坂のほとり(現在の岡谷町、県道迦葉山線道路沿い)の白雪を朱に染め、追手の木内八右衛門と一騎討ち。
 天正10年(1582)6月、身の保全と栄達のため、甥の平八郎を殺した美濃守も罪の呵責に耐え切れず、出羽三山(湯殿山)に願をかけたが満願が果たせなかった。平八郎の化身にはばまれたからである。
 天正10年6月末〜17年7月にかけて真田一族の矢沢薩摩守頼綱(沼田城代)は、北条氏直氏邦に攻め立てられたが奮戦する。
 小田原攻略のあと、天正18年(1590)末、徳川家康から北関東の関門・沼田城の、統治を命じられる真田信幸。
 慶長5年(1600)奥州・上杉景勝討伐(会津の役)の途中、西軍に味方するため帰国の際に沼田城に立寄った義父・昌幸の入城を拒絶する小松殿。
 (小松殿=本多平八郎忠勝の娘で家康の養女、そして信幸夫人 小松殿、のちに大蓮院夫人と呼ばれる。)
 沼田真田氏最後の城主・伊賀守信澄は、領民を窮乏から救わんと奮然と立上った月夜野農民の杉本茂左衛門の直訴等により滅亡する。
 5代91年間にわたった真田氏の政治も、天和元年(1681)に終わる。
 天和2年(1682)正月3日(あるいは4日)より18日までの15日間にして沼田城は破却される。
 その後は、幕府直轄の代官支配下におかれ、代官屋敷が設けられた。